序章:王都の日々
第1話「広場の吟遊詩人」
朝の光が、王都イリスの尖塔を黄金色に染め上げていく。
市場の喧騒は生き物のように蠢き新鮮な野菜や果物を並べる商人の声や鍛冶屋の槌の音が街の鼓動を刻んでいた。

その喧騒から少し離れた静かな通り、蔦の絡まる石造りの家の一角に少年はいた。
庭と呼ぶには少しばかり手狭だが草木の手入れが行き届いた一画。
色とりどりの花々が朝露を浴びてきらきらと輝いている。 その中で一人、彼はイーゼルに向かっていた。
ナナン、16歳。
山猫族の血を四分の一受け継ぐ彼は日に焼けた肌と時折猫のように細くなる金色の瞳が特徴的だった。
頭頂部から覗く小さな尖った耳は、街の人々から親しみを込めて「猫耳の絵描き」と呼ばれる所以だった。
その手には絵筆が握られ、キャンバスには庭に咲く朝顔が繊細なタッチで写し取られていく。
風が吹くたびに彼の柔らかい灰色の髪がさらりと揺れた。
◇ ◇ ◇
「ナナン、朝から熱心だねぇ」
優しい声が背後から聞こえた。
振り返ると穏やかな笑みを浮かべた父、ヨハンが立っていた。
ヨハンは人間で、この王都で薬屋を営んでいる。
近所の人々からは厚い信頼を寄せられており、実は宮廷薬剤師という裏の顔も持っていた。
しかし家では妻と息子に甘い、どこにでもいる優しい父親だった。
「ああ、父さん。 おはよう。 今日は朝顔が綺麗に咲いていたからさ」
ナナンは軽く手をあげ再び筆を動かし始めた。
その時、裏口から明るく豪快な声が響いた。
「ナナン! 朝から絵なんて珍しいじゃない! って、あら? ヨハンもいたの?」
山猫族の血を半分受け継ぐ母、リアが現れた。
長身でしなやかな体躯、そして太陽のような明るい笑顔は今も人々を魅了する。
かつては冒険者として名を馳せた彼女だが、今は家庭を守る良き母となっていた。
しかし、時折見せる鋭い眼光は、かつての冒険の日々を確かに物語っていた。
「おはよう、リア。 今日はライナスとミラも来るって言ってたよ」
ヨハンがそう言うと、庭の入り口から声が聞こえてきた。
◇ ◇ ◇
「おはよーう、ナナン! って、あっ! おっはよーございまーす、おじ様、おば様!」
大柄でのんびりとしたライナスは神官の家系に生まれた少年で、博識で頭の回転は速いのだが…
どこか抜けたところがあって周囲を和ませる…
いわゆるムードメーカーだ。
「遅れてごめん! おじ様、おば様、おはようございます!」
少し息を切らせたミラが続いた。
彼女は王都最大の大商家の娘で、容姿端麗で才色兼備、皆の前では完璧な優等生! なのだが…
ナナンの前では容赦なく毒舌を吐く、俗に言うツンデレだ。
「おはよう、二人とも。 ちょうどいいわ、朝食一緒にどう?」
リアはにこやかに微笑み、皆を家の中に招き入れた。
朝食後、ナナン達は完成した絵を数枚持って街の中心にある広場へ向かうことにした。
◇ ◇ ◇
広場は様々な人々で溢れかえっていた。
3人は広場で別れ、ナナンは広場の入り口付近に絵を並べて立て掛けた。
大道芸人の軽快な音楽、物売りの威勢の良い声、子供たちの歓声が混ざり合い独特の活気を生み出している。
ナナンの描く風景画は、その繊細なタッチと鮮やかな色彩で人々の目を引き、何枚か売れていった。
そして昼過ぎ、広場の一角がざわつき始める。
人々が自然と輪を作り始めたのだ。
何事かと近づいてみると中心には一人の吟遊詩人が立っていた。
古びたリュートを抱え、目を閉じている。
やがて静かに爪弾き始めると、力強く、そしてどこか哀愁を帯びた歌声が広場に響き渡った。

「いにしえの王国、栄華を誇りし都… その名は忘れ去られ、砂塵に埋もれた… 」
吟遊詩人の歌は「とある王国の興亡」という、滅びた古代王国の悲劇の歴史を語る物語だった。
壮大な歴史の物語、栄華を極めた王国の滅亡、そして人々の悲しみ。
ナナンの心は、その歌声に強く惹きつけられた。
今まで経験したことのない感情が、胸の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
まるで、遠い昔の出来事が、自分の身に起こったことのように感じられた。
群衆のざわめきも、周囲の景色も、すべてが遠くへ消え、彼の意識は歌の世界へと引き込まれていった。
◇ ◇ ◇
歌が終わると、広場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
ナナンは高揚した気持ちを抑えきれず、吟遊詩人の元へ駆け寄った。
「あの… 素晴らしい歌でした! まるで… 本当にその時代を見てきたかのような… 」
ナナンは興奮で言葉を詰まらせながら、必死に感動を伝えようとした。
吟遊詩人は優しく微笑み、静かに語り始めた。
その目は、遠い過去を見つめているようだった。
「少年、君の瞳には強い光が宿っている。 いつか… そう… いつか、この広い世界を旅し、自身の目で見た世界の真実を人々に伝えて神の問いに答えるといい。」
その言葉に、ナナンの鼓動が高鳴る。
旅への想いが、今まで以上に明確な形を帯び始めた。
しかし、吟遊詩人の表情は一転、厳しくなった。
「だけど、忘れてはいけない。 それを知ることは、時に大きな代償を伴う。 それでも… 君は求めるのか?」
「それ?」思わず、ナナンは呟いた。
「… 世界樹を目指せ。」
その言葉を残すと、吟遊詩人は群衆の中に紛れ、魔法のように姿を消してしまった。
残されたナナンの胸には、吟遊詩人の言葉が深く刻み込まれていた。
世界の真実と、神の問い。
真実とは… 問いとは… 代償とは… そして世界樹とは何なのか。
様々な感情が彼の心を激しく揺さぶっていた。
今まで抱いていた冒険への漠然とした気持ちが、必然へと変わり始めた瞬間だった。
◇ ◇ ◇
夕焼けが迫り、茜色に染まる空を見上げながら、ナナンは家路についた。
広場での出来事を思い返しながら、彼は空を見上げた。
夕焼けに染まる空は、どこまでも広く、そして遠くへと続いているように思えた。
彼の心は、広い世界への憧れと、これから始まるであろう冒険への期待で満ち溢れていった。
世界樹を目指す。
ここから彼の長い旅路が始まるとは、誰も知る由もなかった。

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