序章:王都の日々
第2話「それぞれの想い」
静かな調薬室で、ヨハンは乳鉢の中で薬草を丁寧にすり潰していた。
微かに甘い香りが部屋に漂う。
窓から差し込む午後の光が、棚に並べられた薬瓶を照らし、琥珀色に輝かせている。
その手元を見つめるヨハンの脳裏には、幼い頃のナナンの姿が浮かんでいた。
幼いナナンは、ヨハンの足元をちょこちょことついて回り、目を輝かせながら薬草の名前や効能を尋ねていた。
「これはね、カモミールといって、心を落ち着かせる効果があるんだ」
「こっちはエルダーフラワー。熱が出た時に飲むといいんだよ」
ヨハンは一つ一つ丁寧に教え、ナナンはそれを熱心にノートに書き留めていた。
小さな体で大きなノートを抱え、真剣な眼差しでヨハンを見上げる姿は、本当に愛らしかった。

ナナンの薬草に関する知識は、並みの薬師以上だ。
幼い頃からヨハンの仕事を見て育ったのだから当然だが、何よりナナンの優れた嗅覚がそれを後押ししていた。
しかし、その優れた嗅覚が災いし、刺激臭の強い薬草を扱うことが苦手で薬師の道を諦めてしまった。
ヨハンは内心、少し残念に思っていたが、ナナンの気持ちを尊重していた。
絵を描くことに情熱を燃やす息子の姿を見るのは、それはそれで嬉しいことだった。
ナナンの描く絵は、確かに見る者の心を癒す力を持っていた。
ヨハンは乳鉢の手を止め、窓の外に目をやった。
ナナンの旅立ちの夢。
応援したい気持ちと、心配な気持ちが入り混じっていた。
この世界は、ナナンのような優しい子が生きていくには、少しばかり厳しいかもしれない。
それでも、息子の瞳に宿る強い光を思い出す。
あの光は、何者にも消すことはできないだろう。
ヨハンは静かに微笑んだ。
最後は、息子の背中を押してやろう。
それが、父親としての自分の役目だと信じて。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ナナンの家の庭では、リアが花壇の手入れをしていた。
土に触れる感触を楽しみながら、彼女もまた息子のことを考えていた。

ナナンの優しさは、リアにとって誇りであると同時に、心配の種でもあった。
冒険者として生きてきたリアは、この世界の厳しさを誰よりも知っている。
ナナンのような優しい子は、この世界では傷つくことは避けられないだろう。
幼いナナンは、いつもリアに冒険の話をせがんでいた。
リアは誇張を交えながら、自分が経験した数々の冒険談を面白おかしく語って聞かせた。
巨大な魔物との戦い、深い森の奥に眠る宝、そして、様々な人々との出会いと別れ。
ナナンの瞳は、いつもキラキラと輝いていた。
リアは、ナナンの冒険心を育てたのは自分かもしれない、と考えて少し責任を感じていた。
だからこそ、護身術は徹底的に教え込んだ。
半獣人の身体能力に加えて、幼い頃から鍛え上げたのだから、並の大人よりは強いはずだ。
それでも、実戦経験がないのが不安だった。
リアは庭の隅に目をやった。
ナナンの描いた絵が何枚か立てかけてある。
花や風景を描いた優しい絵。
リアは微笑んだ。
ナナンの旅立ちを、心から応援していた。
自分も若い頃はそうだった。
未知の世界への憧れ、新しい自分を探す旅。
ナナンの気持ちが痛いほどわかる。
危険なこともあるだろう。
しかし、それ以上に得られるものがたくさんあるはずだ。
リアは空を見上げた。
ナナンの未来が、明るく照らされていることを願って。
◇ ◇ ◇
神殿の境内では、ライナスがぼんやりと空を見上げていた。
青い空に白い雲がゆっくりと流れていく。
ナナンのこと、そして自分が神官の道を進むことを考えていた。

ナナンの絵は本当にすごい。
あいつの絵は、見ている人の心を癒す力がある。
自分にはそんな力はない。
自分は神に仕え、人々の心の支えになる道を選んだ。
それはそれで大切なことだと思っている。
人々の心の支えになる。
ナナンとは違う形で、人々を支える。
子供の頃、ライナスはよくナナンの家に遊びに行っていた。
ナナンの両親は優しく、いつも温かく迎えてくれた。
特にリアの豪快な話は、ライナスにとって異世界の話を聞いているようで、とても面白かった。
ナナン描く絵は、その頃から周りの子供たちとは一線を画していた。
繊細で、優しくて、どこか心を掴む力があった。
ライナスは空から目を下ろし、境内の木々を見つめた。
ナナンの旅立ちを、少し寂しく思っていた。
いつも一緒にいた幼馴染がいなくなるのは、やはり寂しい。
それでも、ナナンの夢を応援したい。
あいつなら、きっと素晴らしい未来を紡いでくれるだろう。
ライナスはそう信じていた。
◇ ◇ ◇
大商会の屋敷の一室で、ミラは退屈そうに窓の外を眺めていた。
広大な庭園、遠くに見える王都の景色。
すべて見慣れた風景だった。
ナナンのこと、そして自分の将来のことを考えていた。
ナナンの描く絵は確かに素晴らしい。
でも、あいつは世間知らずなところがあるから心配だ。
それに、私を置いていくなんて許せない。
幼い頃、ミラはナナンのことをいつもからかっていた。
でもそれは、ナナンのことが好きだからこその裏返しだった。
ナナンの存在は、ミラの心を癒し、優しい気持ちにさせてくれた。
ナナンの前では、素の自分を出せる。
それは、ミラにとってとても大切なことだった。
ミラは窓枠に手をかけた。
ナナンの旅立ちを、複雑な気持ちで見送るだろう。
心配な気持ち、寂しい気持ち、そして少しだけ、置いていかれることへの怒り。
それでも、ナナンの夢を応援したい気持ちは、他の誰にも負けない。
ミラは小さく呟いた。 「…無事に帰ってきてよね、バカ」

◇ ◇ ◇
それぞれの想いが交錯する中、ナナンは自室の窓辺に立っていた。
夜空には無数の星が瞬き、静かに街を見下ろしている。
両親の愛情、幼馴染との友情、そして吟遊詩人の言葉。
様々な想いが彼の心を揺さぶる。
そして、静かに、しかし確固たる決意を胸に抱いた。
「僕は、旅に出る。 この目で世界を見て、世界樹を目指すんだ。」
夜空を見上げるナナンの瞳には、強い光が宿っていた。
その輝きに、迷いはなく、確かな決意の証だった。
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