序章:王都の日々
第3話「旅立ちの朝」
朝日が差し込む部屋は、ナナンが丹念に荷造りをする音で満たされていた。
使い込まれた革製のリュックサックは、これから始まる長い旅の相棒となる。
長年使い込まれて革は柔らかくなり、所々擦り切れているが、しっかりと手入れが行き届いていることが見て取れる。
リュックの口を大きく開け、中身を丁寧に詰めていく。
まず、一番底に敷いたのは厚手の布だ。
これは寝床で地面の冷たさを遮断するための工夫だ。
その上に重ねるように、丁寧に丸めた毛布を詰める。
その隙間には、着替えの服を小さく折りたたんで詰めていく。
着替えは必要最低限に抑えられているが、寒暖差に対応できるように、薄手のものから厚手のものまで、バランス良く選ばれていた。
次に、ナナンが大切にしている道具類を詰めていく。
まず取り出したのは、使い込まれたスケッチブックと、色とりどりの絵具、そして様々な種類の絵筆だ。
絵筆は一本一本丁寧に布でくるみ、折れないように小さな革のケースに収めていく。
スケッチブックは表紙が擦り切れ、角は丸くなっているが、中にはこれまで描いてきた数々のスケッチが大切に保管されている。
それは、ナナンの成長の記録であり、宝物だった。
リュックの側面にある小さなポケットには、父から譲り受けた薬草図鑑が収められている。
表紙は擦り切れ、角は丸くなっているが、ナナンにとってはかけがえのない宝物だ。
ページを捲れば、様々な薬草の絵と効能が詳細に記されており、ナナンは幼い頃からこの図鑑を読み込んできた。
薬の調合道具も、小さな木箱にきちんと収められている。
乳鉢、乳棒、薬匙、ビーカーなど、必要なものが過不足なく揃っていた。
最後に、母親から渡された品々をリュックに詰める。
まず、護身用の短剣。 革製の鞘に収められた短剣は、小ぶりながらも鋭い切れ味を誇る。
ナナンは鞘から短剣を抜き、刃先を確かめた後、再び鞘に収めた。
そして、羊皮紙にびっしりと書き込まれた手紙を受け取った。
それは、母が冒険者時代に培った知恵と経験が詰まった、いわば「旅の虎の巻」だった。
手紙は丁寧に折り畳まれ、防水のために蝋引きされた布に包まれていた。
荷造りを終え、リュックを背負ってみる。
ずっしりとした重みが肩にのしかかるが、不思議と不安はなかった。
むしろ、これから始まる旅への期待と、故郷を離れる寂しさが入り混じった、複雑な感情が胸に広がっていた。

階下からは、朝食の準備をする心地よい音が聞こえてくる。
ベーコンを焼く香ばしい匂いと、パンが焼ける甘い香りが鼻腔をくすぐる。
ナナンはリュックを部屋の隅に置き、階段を下りていった。
◇ ◇ ◇
食卓には、いつものように家族3人が揃っていた。
父ヨハンは、少し寂しそうな顔をしているが、優しい眼差しでナナンを見つめている。
母リアは、いつものように明るく振る舞っているが、時折見せる真剣な表情から、息子への深い愛情が伝わってくる。
テーブルの上には、焼きたてのパン、ベーコンエッグ、そして温かいミルクが並んでいた。
「おはよう、ナナン。荷造りは済んだのか?」
ヨハンが優しく声をかける。
「ああ、父さん。終わったよ。」
ナナンは椅子に座り、朝食に手を伸ばした。
「旅先では無理をするんじゃないよ。 困ったことがあったら、いつでも手紙を送りなさい。 この手紙に、知り合いの商人の連絡先を書いておいたから。」
ヨハンは心配そうに言い、一枚の羊皮紙をナナンに渡した。
ナナンは頷き、その手紙を受け取った。
「心配ないわ! ナナンは私が鍛えたんだから! それに、何かあったらこの手紙を読めば大丈夫よ!」
リアはそう言って、ナナンに手紙を渡した。
先ほどナナンがリュックに詰めたものとは別の手紙のようだ。
手紙には、母が冒険者時代に培った知恵や経験が詰まっているらしい。
ナナンは苦笑いを浮かべながら、手紙を受け取った。
母の過剰なほどの心配性は、昔から変わらない。
「お母さん、そんな大袈裟な…」
「大袈裟じゃないわ! 冒険は命がけなのよ! って、もう私は引退したんだったわね、あはは!」
リアは豪快に笑い飛ばしたが、その目は優しさに満ちていた。
その様子を見て、ヨハンもつられて笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
朝食を終え、いよいよ出発という時、玄関の扉を叩く音が聞こえた。
リアが扉を開けると、そこに立っていたのは、ナナンの幼馴染であるライナスとミラだった。
ライナスは少し寂しそうに目を伏せ、ミラは相変わらず憎まれ口を叩きながらも、ナナンの旅立ちを祝ってくれた。
「あんたがいなくなると、からかう相手がいなくなっちゃうじゃない! まったく、勝手なんだから。」
ミラはそう言いながら、小さな包みをナナンに押し付けた。
「旅のお供にでもしなさい。」
ナナンが包みを開けると、中には、旅先で使えるようにと、彼女が選んだお菓子や日用品が丁寧に詰められていた。
甘い香りのするクッキー、日持ちのする干し肉、それに小さな手編みのマスコットが入っている。
ミラの優しさが心に染み渡る。
「ありがとう、ミラ。大切にするよ。」
ナナンは照れ臭そうに礼を言った。
ミラはそっぽを向きながら、「別に、あんたのためじゃないんだからね!」といつものように強がった。
ライナスはナナンに近づき、静かに言った。
「気を付けてな、ナナン。 無事に帰ってくるんだぞ。」
「ああ、分かってる。心配しないで。」
ナナンはライナスの肩を軽く叩いた。
ライナスの寂しそうな表情を見て、ナナンも少し胸が締め付けられる思いがした。
◇ ◇ ◇
王都の門は、想像していたよりもずっと大きく、重厚だった。
巨大な石造りの門は、長年の風雨に晒され、表面は苔むし、所々ひび割れている。
門の上には、王家の紋章が誇らしげに掲げられ、朝日を受けて金色に輝いている。
ナナンは、その門をくぐり抜ける時、故郷との別れを改めて実感した。

門の外には、見送りに来てくれた家族と幼馴染たちの姿があった。
父ヨハンは、少し寂しそうな顔で、それでも精一杯の笑顔で手を振っている。
母リアは、いつものように豪快に手を振り上げ、大きな声でナナンにエールを送っている。
ライナスは、相変わらず所在なさげに目を伏せているが、時折ナナンの方を見て、小さく手を振っている。
ミラは、そっぽを向きながらも、時折ちらりとナナンを見ている。
その瞳の奥には、心配そうな色が隠されていた。
ナナンは、彼らの姿を目に焼き付けるように、ゆっくりと振り返った。
そして、精一杯の笑顔で大きく手を振り返した。
そして、故郷の景色を目に焼き付ける。
しばらくは帰って来れないかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少し締め付けられるような気がした。
◇ ◇ ◇
王都を出てしばらくは、見慣れた景色が続いた。
整備された街道の両側には、広大な畑や牧場が広がっている。
風に揺れる麦の穂が、黄金色の波のようにうねり、のどかな風景が目に飛び込んでくる。
遠くには、故郷の象徴である山々が連なり、朝日に照らされて青く霞んでいる。
ナナンは、時折立ち止まり、風景をスケッチしたり、父から譲り受けた薬草図鑑と照らし合わせながら道端に生えている薬草を観察したりした。
図鑑に描かれた絵と、目の前にある本物の薬草を見比べることで、知識がより深く身につく。
薬草の香りを嗅ぎ、葉の形や色をじっくりと観察するナナンは、まるで宝物を見つけた子供のようだった。
故郷の空気を深く吸い込み、一歩足を踏み出すたびに、旅の実感が湧いてきた。
昼になり、ナナンは街道脇の木陰で休憩を取ることにした。
木漏れ日が地面にまだら模様を描き出し、心地よい風が吹き抜ける。
持ってきたリュックサックを下ろし、中からパンと果物を取り出した。
ミラからもらった包みも開けてみる。
中には、甘い香りのするクッキー、日持ちのする干し肉、それに小さな手編みのマスコットが入っていた。
ミラの優しさが心に染み渡る。
パンと果物で簡単な昼食を済ませると、再び歩き始めた。
夕暮れが近づいてきた頃、ナナンは小さな村にたどり着いた。
夕焼けに染まる空の下、村の入り口には小さな宿屋の灯りが灯っている。
疲れた体を休めるため、ナナンはそこで一泊することにした。
宿屋の食堂は、夕食時で賑わっていた。
木製のテーブルと椅子が並べられ、暖炉の火がパチパチと音を立てている。
商人、職人、そして他の旅人たちなど、様々な人々が集まり、それぞれの言葉で会話を楽しんでいる。
ナナンは空いている席を見つけて座り、夕食を注文した。
温かいシチューと黒パンは、冷えた体に染み渡るようだった。
◇ ◇ ◇
食事を終えた後、ナナンは他の客たちと話をするようになった。
東の港町の話、西の山に住むドワーフの話、そして北の凍える大地に住む獣人たちの話。
様々な土地の話を聞くうちに、ナナンの世界は大きく広がっていく。
その中で、一人の老人が興味深い話をしてくれた。
皺の深い顔に、長い白髭を蓄えた老人は、静かな口調で語り始めた。
「この先の森には、古い遺跡があるらしい。 昔、栄えた文明の跡だとか。 何やら不思議な力が宿っているという噂もあるが…」
老人の話に、ナナンの心は躍った。
遺跡という言葉に、胸が高鳴るのを感じた。
子供の頃から、物語や伝説に出てくる遺跡に憧れていたナナンにとって、それは冒険の象徴だった。
「その遺跡は、どんなところにあるんですか?」
ナナンは身を乗り出して尋ねた。
「森の奥深く、大きな湖のほとりにあるらしい。 だが、道は険しく、魔物も出ると聞く。 安易に近づかない方が良いだろう」
老人は忠告するように言った。
しかし、ナナンの冒険心は、その言葉によってさらに掻き立てられた。
部屋に戻ったナナンは、宿屋で借りた粗末な地図を取り出し、老人の話に出てきた森の位置を確認した。
明日、その遺跡を目指してみようか、と考えながら、ナナンは眠りについた。
未知の世界への期待と、少しの不安を胸に抱きながら。
◇ ◇ ◇
翌朝、ナナンは宿屋を出発し、老人の言っていた森へと向かった。
朝靄の立ち込める森の中は薄暗く、静かで、時折鳥のさえずりが聞こえるだけだった。
木漏れ日が地面にまだら模様を描き出し、幻想的な雰囲気を醸し出している。
空気はひんやりとして澄んでおり、森特有の土と草の匂いが鼻腔をくすぐる。
しばらく歩いていると、ナナンは道の真ん中に倒れている馬車を見つけた。
車輪の一つが大きく外れ、荷台は傾き、積まれていた荷物は散乱している。
周囲の草は踏み荒らされ、争ったような跡があった。乾いた土の上に、黒ずんだシミが点々と続いている。
血痕だろうか。
ナナンの心臓が早鐘のように打ち始めた。
ナナンは警戒しながら馬車に近づき、様子を窺った。
荷物は荒らされた様子で、高価そうなものは持ち去られた後だった。
一体何が起こったのだろうか。
盗賊の仕業だろうか。
それとも…魔物の襲撃だろうか。
様々な可能性が頭をよぎる。
その時、背後から物音がした。
乾いた木の枝を踏む音。
ナナンは反射的に振り返った。
数人の男たちがこちらに向かってくるのが見えた。
彼らは手に武器を持っており、その顔つきは険しい。
革鎧を身につけ、腰には剣やナイフをぶら下げている。
明らかに普通の旅人ではない。

男たちはナナンを囲むように立ち止まり、鋭い目で睨みつけた。
威圧感のある視線に、ナナンは息を呑んだ。
「お前、何者だ? この馬車の荷物を漁りに来たのか?」
男の一人が、低い声で凄んだ。
顔には傷跡があり、鋭い眼光がナナンを射抜く。
ナナンは慌てて首を振った。
「違います! たまたま通りかかっただけで…」
しかし、男たちは信じようとしない。
彼らの目は疑念に満ちており、今にも襲いかかってきそうだ。
ナナンは短剣を握りしめた。
母から教わった護身術を思い出す。
しかし、実戦経験のない彼にとって、多勢に無勢のこの状況は絶体絶命のピンチだった。
どうすればいい…?
冷や汗が背中を伝う。
息を呑み、男たちを睨み返すナナン。
重く緊迫した空気が張り詰めていった。
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